近くて遠い小笠原 ~ 歴史と文化~

2丁目 Y・Y

 東京から南に約1,000キロ、小笠原諸島は、約30の島々からなる亜熱帯の自然環境です。東京都小笠原村父島には約2,000人、隣の母島は約500人が生活しています。
 2011年には世界自然遺産に登録されました。私はこの島のNPOに所属して自然保護活動をしています。
 ボニンブルーと呼ばれる美しい海にはイルカやクジラ、ウミガメなどが生息し、日常観測ができます。
ハワイやガラパコスのように、島が誕生して一度も陸続きになったことが無く、独自に進化した動植物は固有種の宝庫で、今でも進化の途上にあるのです。
しかし外来種への抵抗力は弱く、人間が持ち込んだ様々な外来動植物が大切な自然を攪乱しています。
野生化した猫によるアカガシラカラスバト等の捕食、野ヤギによる植生破壊、クマネズミの食害は、植物はもちろん海鳥の卵やヒナにまで犠牲が及びます。
かつて島の哺乳類と言えば、オオコウモリだけでした。グリーンアノールという爬虫類が昆虫類を激減させました。
世界でも貴重な小笠原固有の動植物が次々に絶滅の危機にさらされているのです。
したがって小笠原の自然を守ると言うことは、これら外来種との戦いでもあります、残された自然を次の世代に引き継ぎ、人々と共生してゆくため、い ま、大変な努力が払われているのです。
 小笠原には、一週間に一度「おがさわら丸」が入港するのみで、東京から25時間半です。
途中の船内で1泊、島に上陸してから原則として3泊、帰路の船で1泊、これは、いま訪問できる最短時間、〝 近くて遠い島? なのです。
生活カレンダーは船の入港から出港の日程に左右され、生活の基本です。 入港日は2軒のスーパーは混み合い、生鮮食品は3日で無くなり、賞味期限切れは常識です。
ガソリンは1L200円くらい、新聞は1週間分まとめて1,200円ですが、誰も買いません。
診療所の医師が3人、急患は自衛隊の飛行艇で、お産は内地です。
道路の信号機は2基、タクシーは1台だけ、物価も高くほとんどが定価販売です。
島での生活も5年、はじめは大変驚きましたが今ではすっかり慣れました。
1830年、米国人のナサニエルセーボレー氏をはじめ、欧米人やハワイ人30人ほどが、ホノルルから小笠原父島に入植したのが始まりということです。
いまでも“欧米系の島民”などと言ってその子孫が多く、それぞれの名前や雰囲気にその面影を残しているようです。
 その後日本は、明治政府が領有権を主張して認められ、日本からも多くの人たちが移住、すっかり多民族の島になりました。しかし、1944年には全島民が内地に強制疎開を余儀なくされました。
そして第二次大戦時には、なんと17,000人もの軍隊がここに駐留していたのでした。
全滅した悲劇の硫黄島なども含めると、当時の島々は要塞化されて、その戦跡や輸送船、大砲などの錆びた残骸は、いまも海岸や島の内陸などに朽ちた姿で目にすることがあります。
戦後は米軍の統治下におかれ、1946年、欧米系島民のみ130人ほどに帰島が許されました。
1968年に領土返還が実現するまでの22年間、欧米系島民の姉弟は英語教育を受けて、高校はグアム島に行きました。
1968年に島が日本に返還されると、今度は英語から日本語教育に変わりました。
想像するだけでも大変な時代で、当時欧米系の島民は、さぞ難儀な道を辿ったことでしょう。
 人々が島に入植してから、たった185年くらいで「島の文化」と言えば、やはり太平洋上の八丈島や旧日本領だったグアム、サイパン、 パラオなどのいわゆる“ミクロネシア文化圏”です。
伝統の踊りや古謡歌が伝わっているのも容易にうなずけます。

最近では「フラダンス」が盛んになりました。新しい時代の波は小笠原にも押し寄せているようです。
満点の星の下でロマンティックなひとときを味わうことができます。
 写真はバーベキューのあと、路上でフラの披露をしてくれたときのひとコマです。この日はぺルセウス座流星群がとても綺麗な夜でした。
島の極めてスローな時の流れ、南国の魅力あふれる日常を是非体験し、満喫していただきたいと思います。

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