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白岡ニュータウン開発秘話(第1話~第6話)

総合地所 所長 藤嶋 進

第1話 カスリーン台風による浸水被害

 『今日は十五夜、学校から帰り宮代にススキ取りで御成街道まで来たら遠くの田んぼがキラキラしてドッとドッと水煙が上げて押し寄せてきた。
怖くなって弟の手を握り恐ろしくて振り返りもせずに一目散に家に走り帰りました。』
80代前後の方は、克明に覚えておられます。今から74年前1947年9月15日カスリーン台風が利根川栗橋付近の土手を決壊させ未曾有の水害を もたらしました。(*注)
現在のニュータウンあたりは一面田んぼと畑(高低差は小学校裏手の道路より1m以上低くかったようです) は完全に水没し水面下に稲穂が 漂う上を筏や船で往来したとのこと、今の高岩天満神社周りやミニストップからヤオコーに向かう旧道あたりには浸水は無く、東方の御成街道側へ 向かうと水嵩があがり周辺はほとんど浸水、低い家は障子の桟まできたそうです。
水没した自分の畑辺りを足で野菜やサツマイモを探りあて煮炊きして一時を凌ぐ大変な状況だったとの事です。
しかし近隣の杉戸・栗橋・幸手・春日部の被害はもっと甚大で建物が水没し、家ごと流されたり潰れたり家財が押し流され、多くの人が行方不明と 悲惨な状況だった模様です。

当社は、1990年代当沿線に多くの分譲候補地を探しましたが、本ニュータウンはこのような情報と当地周辺には遺跡が多い等の確認が取れたこと で1968年候補地と決め本格調査に着手しました。
白岡ニュータウンが誕生する始めのころの事でした。

第2話 「新白岡駅」誕生

 白岡ニュータウン開発当時(1983年) ニュータウンと白岡駅とはバス路線で結ぶ計画でした。
今の道で言えば白岡駅西口から踏切を渡って山王クリニックからヤオコー前をとおり中央通りから現在の駅前あたり、そして学園通り公園 通りから白岡駅に戻るという循環バスの路線案でした。
もし新白岡駅がなく「バス便」であったならニュータウンは今日皆様とご縁があったでしょうか? そう思うと私は「ぞっ!」とする思いです。

高岩地区には昔から国鉄関係者が多く住んでおりました。
その中に国鉄官僚から運輸事務次官を歴任された方もおられ、そんな関係からか当時の荒井宏町長(故人) に新駅誘致推進を願い出ました。 町長も地元意見に賛同して本格的誘致運動が始められました。
当時の国鉄は分割民営化が叫ばれ不採算路線・駅などの廃止が進んでいました。

1985年11月これに反対する中核派が国電多発ゲリラ事件起し終日麻痺状態になるなど揺れ動く中、新駅申請は受理されたものの先の見通しは 立たちませんでした。
しかし当社は、町長に随行して県を始め地元国会議員に実現を願うと共に、当社独自にも国鉄本社や関係部署への日参を繰り返す日々 が続きました。
 こうした中、1986年7月の衆参同時選挙で自民党が圧勝し翌1987年4月国鉄の分割民営化が決まり「J R東日本」がスタートしました。 これより前の1986年10月の国労臨時大会から分裂の様相となり、組合員のJR再雇用が動き出し新体制の流れが当新駅認可へ大きく傾き実現へと 進みました。
だが認可された内容では駅舎計画が従来の「国鉄規定」から「JR規定」で決めるなど迷走、何度もの協議の末の結論は私鉄規定が 適用され、建設資金は全額地元負担が条件でした。
当社はこれを甘受して1987年2月26日新駅は実現されました。
 もう一つの逸話、承認時の駅名は仮称「北白岡」で通常はそのまま駅名と思っていました。
ところが、1986年末の駅名発表の直前で「新白岡」に変更されたのです。〈北〉より〈新〉の方が響き良い名称だがこの急な改名には何故? と不審が募ったものです。
総合地所が〈鼻薬〉を、とか町長があの人に頼んで上から〈鶴の一声〉で決めた等々囁かれたこともあり、後付け理由としては「JR会社の 門出の新駅なので変えた」とのこと、一応噂は消失しました。
さて、真実は?情報開示はもう少し時間がかかりそうで・・・・。

第3話 ニュータウンの開発許可

 前回「新白岡駅誕生」 から少し戻り今回はニュータウンの開発許可に至るまでのお話をしましょう。

1947年(昭和22年)GHQ指揮の下、農地改革(地主の小作地を強制的に国が買い上げ実耕作の小作人へ売り渡す) が行われた。
その後、時は流れ大規模農業時代に代わると3ヘクタール前後の農業経営は行き詰まり、出稼ぎや会社勤めの兼業状態で耕作意欲は減退していました。
1967年(同42年3億円事件、イザナギ景気)弊社(当時安宅産業㈱))は休耕地状態の当地を住宅開発地として目ををつけ土地取得に着手しました。

1971年(同46年) 地元及び白岡町の協力を得るため、道路整備や給水の確保などタウン開発によるメリットを提示して協力を仰ぎ、翌年に開発同意に 漕ぎ着けました。
ところが翌1972年(同47年)中止の憂き目に遭遇!この年当選した革新系畑知事は、東京のベットタウン化する埼玉県への人口流入を抑止するため 田畑の宅地化に凍結宣言が出され、当タウン開発審査も中止とされてしまいました。
当社はその後も根気強く担当部署に通い続けながら畑知事が掲げた教育の向上に沿うべく1976年(同51年)白岡高校用地の提供 (同年4月開校) や 道路整備など田畑の転用利用の実績を示して開発再開を模索していました。
そして1977年(同52年)新たな試練に見舞われました!
安宅産業が進めていたカナダ石油精製プロジェクトの失敗で一千億円の損失が生じ、弊社の中枢が崩壊、倒産の危機に直面したのでした。
社内では事業と人員のスリム化が進む中、国及び金融機関そして同業商社の支援協力を得て、タウン開発の部門は新たに安宅地所(総合地所の前身) に引き継がれ生き残ったのです。
この期間も手は緩めず1979年(同封年) 白岡水道用地提供、1980年(同55年)老人福祉センター用地譲渡、1981年(同56年)高岩体育館テニスコート 用地譲渡と実績を積み上げ開発再開の糸口を探っていました。
そして遂に1982年(同57年)「開発申出書」が白岡町から県へ振出され、長年の念願だった開発許可が受理されたのです。
知事から開発中止とされて開発許可を取付けるまでの10年間、先輩諸氏の辛抱強い努力には敬意をはらうと共に唯々頭が下がる思いです。

第4話 ニュータウンの分譲開始

 それは自治会設立の年でした。私は旧販売センター(旧ケーキ屋)を目にするとき携帯電話のない時代、赤い電話ボックスに中高生たちが真っ 暗になるまで長電話をし、青春を謳歌する姿を見て懐かしかったことを思い出します。
 昭和64年1月7日(土)の販売センター、探してきた日の丸を半旗とし、窓のブラインドや照明は半分に、販売員は喪章、それは昭和天皇ご崩 御の日でした。

 わずか2ヶ月前、2期4次(23棟)分譲も平均倍率14.3倍)(最高倍率34倍)で完売し、これで10回連続記録の快挙達成も束の間、22日に迫った 自治会創立総会の準備と2月のサウスプラザ竣工を控え、コミュニティづくりをどのようにするかの重要課題でピリピリしていました。
ご入居は275世帯を数え、お花見や焼肉大会(現在3~33街区)、芝桜販売とボーンチャイナ陶器メインの「青空市」リンゴ売りクリスマスバザー 等々で手さぐりですが、住民同志の交流が行われていました。
しかし地元とは行き違いばかり、当時ヘリコプターによる薬剤散布や稲刈り後の火煙、夜な夜な愕しい鳴き声(牛カエル)はあたり前、 ご入居方々からすれば大クレーム続出と計り知れなく、如何ともし難い時代でした。
 これらを打破するべく、双方が共に知り会う策として天満神社のカラオケ大会に参加、高岩とのソフトボール大会開催、NTイベントに地元の方 を招待、又出店参加を呼び掛け、集まると「飲み会」を画策して融和を図りました。
地元の方々と徐々に打ち解けたことは言うまでもありません。
その後も高岩・白岡ニュータウン合同盆踊り(現スギ薬局敷地)や白岡ソレソレ踊りに連を組むなど関係を深めてまいりました。
昨今では皆様のご理解とご協力並びに自治会相互の活動が功を奏し、より広域的な友好関係に至っており実に喜ばしいことと思っているこの頃です。

第5話 「リフレの杜」誕生

 勤労者の心身の疲労回復等を目的として付与されるリフレッシュ休暇なるものがありました。
それまで代休や有給を取るのも後ろめたい思いをしたものです。昨今は「何日休め」と…世は徐々に働き方改革へと進んでいるようです。
2002年4月産声を上げた「リフレの杜」はリフレッシュを由来とする造語です。

 リフレは東西軸街区で、駅から歩いてまず目にする街の顔になるエリアとなります。
従来のように北付と南付で庭と車庫に挟まれる街並みに、重厚なレンガ積みを踏襲する事に些か躊躇いがあり、街計画は各賞受賞の経歴をもつ 遠藤剛生氏に協力を仰ぎました。
このエリアの特性について協議を重ねた結果、既存の街並みとは一線を画した街区とし、駅より右手にグランテラスのツートンタイルをみて、 リフレ地域は落ち着きある瀟洒な街区へ、歴史の重み深みの風景を多様にする街並づくりを進めることに決めました。

9m通りを中心に、高低樹木を植え前庭を「森」に、各街区への道は「枝」と見立て、家々に外観も斬新に「葉」や「実」を想定した創りとしました。 益子陶芸家による、森の主フクロウの陶板を門塀に配し、月と太陽をモチーフにオブジェ彫刻を各戸に、浦安のテーマパークの要素をちょっぴり取り入れ、 リフレ散策の楽しさや、住まう方の個性を植栽に引き出す街づくりとしています。

街並みと皆様の丹精の努力が高く評価され、昨年グッドデザイン賞の受賞したことも目新しいことです。
 街は創りましたが住まわれる方々が育てていくもの、50年たったから寿命がきましたという事にはならないのです。
建物がだめになったら建て替え、住む人がいなくなれば新住民に入れ替わり街はずっと生きていきます。大切なのは、街が成長し続けていける 可能性を最初に種まきしてあるかということです。
当社は地区計画・緑化規約を堅持頂き、住民同士のコミュニケーション促進を目的にイベントを起し、自治会の発足までお手伝いさせて頂きました。
30年間の皆様の努力で街は育ってきています。
更には皆様一人一人のお気持ち次第、街が未来永劫発展していくものと信じております。

第6話 「シリーズの終わりにあたって」

【ニュータウンの誕生】

令和元年をむかえました。
白岡ニュータウン誕生のターニングポイントは、何といっても昭和47年、畑和氏が埼玉県知事に就任、当時高校の進学率が高まる中 『十五の春を泣かせるな』と宣言、高校大幅新設で白岡高等学校が認可された事と新白岡駅の開業でしょう。
昭和62年の新駅開業もこの街のスタートを語るときに、欠かせない出来ごとです。
畑知事の流入人口抑止策で新たな住宅街建設は良好な市街地形成計画以外は認めない「計画開発後追線引方式」を取っていたましたが、 白岡高校開校と浄水施設等をきっかけに関係機関と折衝を重ね、昭和59年8月「開発方式第一号として埼玉県から認可を受けました。
それは土地買収などから既に16年の歳月を費やしていました。
一方、新白岡駅は昭和61年3月の計画の認可から同年7月の着工、翌年2月の新駅誕生、認可から1年という超スピードでの開業、国鉄から 民営化移行という激動期を考えると、当時の荒井宏町長始め関係各位のご尽力とご努力の賜物と、感謝に堪えません。

【テレビ・FM共同受信(CATV)】

ニュータウンのもう一つの特徴ともいうべきCATVの誕生は、ヤオコーや高岩公園の南側の高圧電線の影響でテレビの映りが悪いことから、 それを解消する手段として有線放送化することになりました。
ご覧のように屋根には受信アンテナが乱立せず、景観上も美しい家並が続いています。しかも平成13年にはこの有線設備を活用した自治会の 11ch自主放送が総務省より認可され、今日に至っています。
まだご家庭にPC,やホームページも普及していない時代、情報伝達に画期的手段として導入され、現在でも大切なツールとして大活躍しています。

【二段植栽】

街区の二段植栽についても触れておきたいと思います。
昭和54年「ふるさと埼玉の緑を守り育てる条例」は、高度経済成長期で都市化が進む中,緑地の減少対策で制定されました。
ニュータウン開発での緑地対策として編み出され、地域の緑を守る地区計画が施行されました。
特に道路側の生け垣は、庭内の樹木が成長と共にそこで境界線より内側に少し距離を離した二段植栽の方式を考えました。

昨今、駐車場確保や植栽の管理上、ご家庭を悩ませているようですが、将来とも規約をご理解の上、堅持していただければ嬉しいです。
二段植栽は2017年のグットデザイン賞の審査でも高い評価を得て受賞に結び付いた事もご記憶頂きたいところです。

最後に32年間未熟な私どもにいろいろご指導を賜り地域に貢献頂いた歴代会長、役員の皆様、各ご家庭の皆々様に支えて頂きましたこと、 心より感謝申し上げます。
ニュータウンの益々の発展と皆様のご健勝をお祈りし、厚くお礼を申し上げます。ありがとうございました。

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