3丁目 I・S
アメリカ駐在 シカゴ編
日本がバブル経済で膨らんでいた1987年、私はシカゴに赴任しました。
それ迄の海外勤務は二度、イラクとクウェートでした。
シカゴダウンタウンの開発プロジェクトオフィイスに転勤することとなり、熱砂の中近東から先進国アメリカへ行けるという思いで心が弾みました。
ウインディーシティーと言われるシカゴには9月に着任しました。
仕事と生活のセットアップで忙しくしていると冷たい風が吹き始め10月からはコートを着込みました。
冬は大変寒く、年明け1月初めに氷点下48℃ を記録、警報が出て工事現場は閉鎖されて昼から帰宅となりました。
その後も氷点下30℃ 迄下がる事が何度もありました。
寒さ厳しいシカゴですが中西部の人の好さや春草花が一斉に芽吹き景色が一変する様子に喜びを実感しました。
半年後に日本から家族を呼びシカゴ郊外ウイルメットに移りました。
ミシガン湖の西側、日本人駐在員も多く住む街で、中心レーク通りから小道が枝の様に並び、我が家はその小道に向かい合って10軒程並ぶ家の 奥から二番目でした。
家族が到着した翌日、向い家の子がクッキーを持ってきてくれました。
我が家には長男6歳、長女5歳、次男生後4ヶ月の子供がおり、長男と同じくらいのジャックがブラウニーを持ってきてくれたのです。
やがてジャックと長男、その隣のアンナと長女がお互いの家で遊ぶ様になりました。
ウイルメットに移って間もなく春、木々も緑に包まれ、あたかも公園に住んでいる様に感じました。
学校では校長先生や担任の先生に歓迎されお世話になりました。
小学校には日本人の子供は二人だけ、午後には外国人の生徒に母国語で補講をしてくれるクラスが有り、同じ地区にある日本人生徒が多 い学校に集まり一緒に学びました。
その補講も1年で卒業、現地校に馴染み、週末土曜日は日本人学校補習校で学びました。
ペーパードライバーの妻は子供たちの送り迎えで車の運転にすっかり慣れました。
日本人駐在員家族からシカゴでの生活について色々と教えて頂き、子供たちの友達も次第に増えました。
生活に慣れた2年半後にはハワイに移ることになり、親しかった近所の人たちが集まりお別れ会を開いてくれました。
記念に「ウイルメットより」と刻まれた銀のプレートを頂きました。
別れを惜しんで人々の目には暖かい涙も見られ、好い思い出が残りました。
アメリカ駐在・ハワイビッグアイランド編
1990年夏、日本はバブル景気でハワイもリゾート開発、ゴルフ場開発が盛んな時期、通称ビッグアイランド (ハワイ島) へ家族で転居しました。
後に日本の天文台をマウナケア山(海抜4205m) に引き続 建設することになり、きハワイ島に残り、1995年11月迄過ごすことになりました。
最近キラウエア火山が住宅地の近くまで溶岩を噴き出し、ニュースになっているのがハワイ島です。住宅をコナに借り、子どもは無事 HaWaii Prepara-OryACademyに入学できました。
子どもたちは、初めは良くビーチで進んでいましたが、数か月すると遊ぶのには飽き、友達と遊ぶようになりました。
住んでいたコナ地区は子どものスポーツが盛んで、上の二人はテニス、末っ子はサッカーでした。感心したのはスポーツクラブの指導者の質が良く、 子どもが楽しく参加できるようにしていることです。
サッカーの試合などで子どもたちは、勝つことが優先ではなく、少しスローな子でも交代でポジションを替えボールに触る機会が 有るようにしていたことです。
ハワイ島は中央にマウナケアとマウナロア、4200mを超す二つの山が有る為、東のヒロ側と西のコナ側では気候が全然違い、ヒロ側は雨が多く 年間4000mm以上で草木が生い茂っています。
一方コナ側は年間200mm程度と砂漠に近く、流れ出した溶岩流が固まった風景がそのまま残っています。
マウナケア山には世界の天文観測の基地が集まっています。4200mの高度と安定した空気、ヒロの町からも近いこと等親側に適した条件が整って、 研究施設や観測所・天文台が多く建てられています。
日本の「すばる天文台」は一枚のレンズの望遠鏡としては最大の8mの直径があり、1992年建設、1999年から観測が始まり多くの成果を残しています。
1992年7月に建設、その年の基礎工事の最中に8月としては17年ぶりの雪に見舞われました。常夏のハワイですが、4200m山頂は空気も薄く気候も 厳しい環境です。
冬季の工事の備えが必要でした。その年の冬も雪が多く、12月から2月までは工事を一時中断するほどでした。
望遠鏡の建物が完成する頃、1995年夏に子どもたち家族は日本に帰国しました。
ハワイには5年いましたので子どもたちはシカゴの時以上に友達との別れがショックで泣かれました。今でもハワイ時代の友達とSNS等で連絡を 取っているようです。
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