白岡人物伝 「渋谷塊一」(しぶやかいいち)

白岡市文化財保護審議会委員 板垣時夫

農村経済更正模範村への道

 白岡市の「母子愛育会」は、全国初の「愛育村」に指定ざれ、その活動も顕著であります。
今回は、この「母子愛育会」生みの親である渋谷塊一を二回にわたって紹介します。
一回目は、日勝村を全国の「農村経済厚生優良村」に導いた手腕を見ていきます。

 明治26年(1893)、渋谷塊一は、日勝村(現菁莪小学校区)の岡泉で生まれました。
そして、菁莪小学校、粕壁中学校(現春日部高校)を経て、明治大学に入学します。
大学時代の塊一は、歌人北原白秋門下の逸材として活躍していました。
北原白秋の出版する文芸誌に「渋谷香井」という作者名で作品が多く掲載されていることでもよくわかります。

その有能な文学青年が文学をあきらめ家業の農業・製茶業につきます。
大正三年(一九一四)、明治大学法学部を卒業すると家業の農業・製茶業に従事するのです。
今思うと全くもったいない話ですが、これは塊一(土の固まり)という名前を見れば分かるように、「農業一筋に生きて欲しい」という父親の願いに 従ったからです。
しかし、日勝村ではこの有能な青年を放っておきませんでした。

大学で身につけた広い見識で村長を補佐して欲しいと、日勝村役場の名誉助役にしました。
これがきっかけで、これから紹介する名村長としての活躍がはじまるのです。
 昭和4年(1929)アメリカからはじまった世界恐慌は、たちまち日本にも波及し、昭和大恐慌が起こります。
この頃日本では凶作や飢饉が儀いていたため、ダブルパンチを受けた農村は特に深刻な打撃を受けました。

このため政府は疲弊した農村を建て直すための「経済更生運動」をすすめました。
昭和7年、日勝村の村長になっていた渋谷塊一はいち早くこのことに気づき、「共存共栄の理想郷実現」をめざし、「自力更生五カ年計画」を立ち上げ ました。
組織を生かし村全体が一致協力して土地改良や耕地整理、道路や用水路の整備をして耕地を増やしました。
高価な肥料を買わず自給肥料が作れるよう家畜の飼育をすること、特に養豚や養鶏をすすめました。
品質の良い作物を作れるように指導者を招いたり、お互いに教え合うようにもなりました。
それで、養蚕や製茶など以前からの特産物に加え、ナスやキュウリなども新しい特産物に加わりました。
こうして各農家の収入も増え、村全体が豊かになりました。
立派な農業後継者が育つよう「青年修練道場」も建設しました。教室の他に作業場・農具舎・運動場つきの養豚舎・鶏舎などがある立派なものでした。
村民が手軽に読書したり勉強したり出来るよう公立の図書館も建てました。
こうして、日勝村の「自力更生五カ年計画」 は大成功をおざめ、昭和11年に内務大臣より全国の模範村として表彰されました。

母子愛育会と北原白秋

 前回紹介しましたように、日勝村長渋谷塊一は戦前の「経済更生運動」において、日勝村を全国の模範村に導きました。
今回は、全国初の「愛育村」指定と、全国に先駆けた愛育村事業について紹介します。
 「愛育村」指定とは「国民の安全な出産と健全な育児のため」に設立された恩賜財団愛育会によって実施した事業の一つです。
「国民の安全な出産と健全な育児」の具体的な取組みとして、「安全な出産施設を整えた保健衛生に取組む村」のモデルを作り、全国に広げるためのもの でした。
全国の山村、漁村、農村などから指定村を選出しました。
日勝村はみごと農村の代表として昭和11(1936)年に第1回愛育村に指定されました。
このことは、今日の保健センター機能を有する施設を全国に先駆けて設置したことになります。
 日勝村では、まず「愛育隣保館」を建設し、産婆さんと嘱託医を常駐させました。そして、妊婦と分娩時の保護をはじめ、母性相談、乳幼児の保育方法の 指導、健康調査、相談などを実施しました。
 次に愛育指導員として保健婦に村内を巡回させ、お嫁さんが妊娠している家に行っては、「お嫁さんに無理をさせないように」「栄養のある食事を」 などと舅姑に対しての指導をしました。
また、農繁期には臨時の託児所を開き、母親の負担を軽くするとともに、乳幼児の健康保持にも力を注ぎました。このような活動が報道され、全国から 視察団が訪れるようになりました。
現在でも、白岡市の母子愛育会の活動は高く評価され、平成24年には、全国大会で総裁賞を受賞しています。平成28年2月には、母子愛育会総裁の 秋篠宮紀子妃殿下が白岡市母子愛育会活動を訪問されました。
余談になりますが、このときの愛育事業の説明役を光栄にも筆者が務めさせていただきました。

その後、渋谷塊一は昭和17年に日勝村長を辞めると、翌年には川越市長に選出され昭和20年まで在職しました。
戦後は生家が製茶業を営んでいたこともあり埼玉県茶業振興会長などを歴任し、県東部の茶業の振興と狭山茶の振興にも尽力しています。
昭和41年には勲五等瑞宝章を受章、同年には名誉町民に推挙されました。
昭和46年に71歳の生涯を閉じ、町民葬が菁莪小学校で執り行われました。

コメント

  1. 田中壽子 より:

    渋谷かいちさんの、お話、
    とても興味深く拝聴しました。私は、現在80歳、遥か75年前、5才から10才までの約5年間を、旧日勝村、岡泉で、過ごしました。それも、渋谷邸の別棟に、疎開者として、お世話になっていました。
    渋谷さんご一家は、みんな優しい方たちで、特におじさんは、いつも、ニコニコしてらしたのを、覚えてます。公職追放や、解除があったり、又、年に、一度お茶摘みと、製茶工場が、稼働して良い香りが、しました。近くの、お百姓のおじさん達が、総出で、手伝ってました。子供だったので、渋谷のおじさんが、そんなに、立派なお方(村長、川越市長等歴任、白岡名誉市民など)とは存ぜず、今でいう
    タメ口で、しゃべったりして、申し訳なく思います! 

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