特別寄稿 第5回 白岡人物伝 井沢弥惣兵衛為永

白岡市文化財保護審議会委員 板垣時夫

市内の緑豊かな田園風景の礎は江戸時代の新田開発にあります。
それまでの低湿地や沼地を水田に変えることは、排水路と用水路の整備が必要でした。
この工法を行ったのが井沢弥惣兵衛為永です。
為永の足跡は白岡市域だけではなく、県内の見沼溜井の干拓とこれに代わる用水源として見沼代用水の開削があります。
また、関東の多摩川改修・手賀沼の新田開発など全国にその足跡を残しています。

井沢弥惣兵衛為永は承応3年(1654年)に紀州溝口(現和歌山県海南市)に生まれ元禄3年(1690年)紀州藩に仕え、勘定方として藩の土木事業に尽くしました。
藩主の徳川吉宗が八代将軍職に就いた時に旗本として迎えられ、勘定役となったのがすでに60歳を超えていました。
為永は全国各地の河川改修や新田開発に著しい活躍をし、勘定吟味役に昇進しました。
為永の考案した土木技術は「紀州流」と呼ばれ、幕府の正式工法となり、明治時代になって近代土木技術が起きるまで長く用いられました。
為永の生涯で最大の事業が見沼の開発でありました。

見沼代用水の開削と市域の開発
井沢弥惣兵衛為永は見沼代用水の開削にあたり享保10年(1725年)に見沼を見聞し、同11年8月に着手し、同12年春に完成している。
見沼代用水路は利根川沿岸の下中条(現行田市)から取水し、途中は星川の流路を利用し、当市柴山で元荒川を伏越でくぐり、末端は川口市から東京都に及んでいる全長80㎞にも及ぶ巨大な水路をわずか半年で開削したのです。 この見沼代用水の開削に伴って当市を流れる用・排水路も整備されました。
主なものに栢間堀川、黒沼代用水、笠原沼代用水があり、当市の新田開発に大きな役割を果たしました。

柴山伏越 
市内には多くの河川が流れ、川と川が交わる地点では川の立体交差が9カ所あります。
その中でも代表的なものが柴山伏越です。この伏越は元荒川の川底を見沼代用水が潜り抜けるものです。
当初の構造は深さ5.7mの地中に、長さ46.8m、横4.2m、高さ1.2mの伏越樋を埋設したものです。
これとは別に長さ46.8m、横3.9m、高さ1.8mの掛渡井も一緒に造られましたが、後には撤去されました。
その後、数回にも及ぶ改修を行い今日のものになりました。

常福寺の墓碑 
井沢弥惣兵衛為永は元文3年(1738)に85歳で逝去し、江戸麹町(現千代田区)心宝寺に葬られました。 明和4年(1767)には見沼代用水路の沿線村民は為永の遺徳をしのび、柴山の常福寺に分骨して墓石を建立しました。

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