浅井 嘉一
①いま なぜ 富士山?
”寒い冬に表の富士、暑い夏は裏富士を歩く”に魅せられ、11月快晴の朝、 集合場所の新都心に向かい、7時に迎えのバスに乗り込みました。
行く先は、御殿場市「須走・浅間神社」初参加のスタート地点で昼前に到着しました。 何と3台のバスで集まった100人あまり、約11キロ、 4時間で市内を通り抜けるコースから私の「富士山麓ウオーキング」のはじまりでした。
山麓一周は、約140キロで毎月一回の日帰りコースを1年間でひと廻りするツアー。
始まった当初バス10台500人の大集団が歩き沿道を驚かせ?住民を不思議がらせたとガイドの説明、 ウオーキングに関心の高いことを実感しました。 霊峰・富士は新白岡からも望め、特に純白に輝く冬の姿が好きです。
20年前に転居して来たころ「筑波の二つの峰から日光・男体山、 上越国境の山並みから富士山も望める素敵な町」とよく手紙にも書きました。
横浜にいたころの富士周辺は、こども連れの手ごろなドライブコースで観光地や5合目あたりまではたびたび訪れましたが、 断片的で知らないことばかりです。
周辺のことなどもっと知ろう、このウオーキングをひと足先に始めたという田端さんに誘われるまま私もツアーに加わりました。
私の富士登山は2003年7月18日、須走口から八合目で一泊、翌朝3時起床、ご来光に思わず万歳!と合掌、感激しました。
お鉢を一周するも同伴の妻が軽い高山病気味とのことで持参の酸素を吸引してしばし休憩、回復を待ってお鉢をまわりました。
巨大な火口は深く落ち込み荒々しく、あの美しい富士からは想像も出来ないもうひとつの顔でした。
3776メートルの最高峰・剣ヶ峰の巨大なレーダーと観測所、冬も交代で気象情報を提供しているという、 しかしその施設やレーダードームも 役目を終って数年前に解体されて、その姿はもうありません。 (レーダードームは麓に移設、展示されているという)
きょうのツアー100人の隊列は、御殿場市内を歩き中畑からゴールの印野へ、ここには天然記念物の溶岩随道がありました。
1707年の大噴火で埋まった溶岩地帯ですが300年余りの年月が変化に富んだ森に生まれ変わり、 自然の回復力の偉大さを感じました。
私たちは溶岩が造ったというとりわけ不思議な洞窟「御胎内洞」にも案内されました。 人ひとりがやっと通れるという狭く漆黒の地底が続き岩にぶつかることしばしば、痛い思いもしながらとても不安でした、 ようやく這い出して 美味しい外気、心地良い疲れで私の初ウオーキングの1日目が終了しました。
②富士山本宮浅間大社(富士宮市)と田貫湖からの眺望
祭神「木花開邪姫」コノハナサクヤヒメ、桜の花の化身のように美しいがその身はもろい女神、 古事記には「木花之佐久夜毘売命」と記されています。
きょうのスタートの富士宮はB級グルメ焼きそばでおなじみです。
浅間大社は全国にある「浅間神社」の総本宮。富士八合目から頂上一帯は大社所有で奥宮が祀られ、宮司もいます。
食堂や売店、郵便局もあって携帯も繋がりシーズンは銀座並みの人出で身動きできないほどとか、さすが”日本一”のお山です。
「富士大社」ではなく、なぜ浅間(センゲン)なのか疑問も湧いてきました。
人は”一度登らぬバカ二度登るバカ”とか言います。富士山は遠くからでも懐かしく想い、いつ見ても気高さを感じるのは私だけでしょうか。
山頂にもう立つことも無いだけに毎月一回、 富士山を見ながら時計回りのウオーキングは知らないもの同志を結び付け顔なじみに会話も弾む 楽しいひとときです。
その昔、源頼朝が狩で馬を繋いだ古木や曽我兄弟の仇討ちなど由緒ある所を歩きました。
ダイヤモンド富士の撮影ポイント田貫湖からは「大沢崩れ」の巨大な富士の割れ目が真正面に眺められました。
12年ほど前、私は富士五合目を一周する”お中道めぐり”を撮影しました。 有名な女姓登山家と一泊二日の団体探検ツアー、所々道無き道で普段この道は 通行できませんが旧建設省が主催する貴重な体験でした。
大沢崩れは”富士のグランドキャ二オン”とも呼ばれ静岡側で大きな亀裂の深い谷、毎年台風や梅雨時には激しい土石流となって麓を襲い、 今でも注目され恐れられているのです。
作家の幸田文さんは70歳を過ぎてここを訪れ「崩れ」(講談社)を執筆その文中表現で「大沢は富士山てっぺん、俗にお鉢と呼ばれる 火口の崖縁すぐ下から、山体を抉って一気にほぼ真西に向け走り下りる、すさまじい崩壊谷である。 (中略)長さ2.1km、幅500m、 深さ150mにわたって絶えず岩屑が落下し、誰も恐ろしくて思わず六根清浄をとなえておののく・・・」 私たちは実際の崩れの様子を ハイビジョン撮影して、その後幸田さんの講演のお手伝いをしました。
お中道が大沢崩れに差し掛かる所に小さな神社がありました。
大沢越えは一番の難所、その安全の祈願所なのでしょうか? 六根清浄(ろっこんしょうじょう)を唱えながら白装束に金剛杖の一行が 現れそうな雰囲気です。
因みに六根とは、目・耳・鼻・舌・身・意の六つで、そこに起きるさまざまな欲望を絶ち清らかな人にのみ、 無事に登山が叶えられると 考えられていたようです。
③朝霧高原から本栖湖~青木ヶ原の樹海を歩く
五月晴れ、約14キロ5時間コース、参加311人バス7台は近年に無い盛況ぶりという? 朝霧高原集合、少し離れた猪之頭公園がきょうの スタートで「東海自然歩道」を北へ進む。
緑の草原と秀峰・富士を背に乳牛が草を食む絵になる風景は牧歌的眺めで道も平坦、 同行で絵心ある田端さんは「ここでキャンパスに絵筆を 振るいたい」しばし見惚れていました。
しかし山裾では一列で歩く”山の辺の路”途中で二箇所、狭くて小さな吊橋を渡りました。 “ニリンソウ”が重い足取りを癒してくれます。
富士を遠巻きに見て歩くこのあたりからの姿は均整とれた稜線、雄大な裾野で昔から駿河富士と呼ばれた絶景の所以です。
富士を右に眺めながら歩きました。頂の残雪が鈍く光り、次第に形を変えているようです。
田子の浦ゆ うち出でて見れば 真白にぞ
富士の高嶺に 雪は降りける
山部赤人
6月も約15キロ、5時間余り、前回とこのルートはともに最長で”難コース”でした。
先月の終着地がきょうの出発点、間もなく本栖湖が見えました。富士五湖のうちで最も西に位置し水深122メートルと深い湖です。
お札を飾るほどの雄姿は、清進湖の赤富士と並んで有名です。
山頂からの”日の出”毎年12月20日ころから5日間くらいが良く見え確立が高いそうです。
その昔私も田貫湖畔から”ダイヤモンド富士”撮影に挑戦、 まだ暗いうちに着くも撮影ポイントは既にカメラの三脚が乱立して超満員しかも悪天候、 そもそも「わたしとダイヤモンド」など無縁でして、生涯ともご縁はないでしょう・・・。
青木ヶ原の延々と続く”樹海歩き”加えて途中から降り出した雨ではじめて合羽のお世話になりました。
「コースを一歩外れると”別の世界”に行くこともありご注意を」とガイドに再三注意されました。
アップダウンに加えて青空にも見放された”ずぶ濡れウオーク”。途中で風穴に立ち寄り、洞窟の冷気、 巨大な”氷柱”や低温利用で養蚕繭の 保存にも驚きました。
特に急な石段での出入りが難関、数多い洞窟も富士山噴火の産物なのでしょう。 コースの後半で脹脛(ふくらはぎ)に激痛を覚えました。
加えてびしょ濡れ、やっとの思いでゴールイン! この日は、憔悴しきって帰路のバスに身を任せる始末、我ながら極めてミットモナイ姿、 足腰の弱さを露呈した最悪の一日でした。
④鳴沢氷穴~河口湖畔そして富士吉田の北口本宮富士浅間神社へ
7月、去年より1週間も早く梅雨が明けました。古稀の老人は暑さに弱いのですが・・・。 きょうから高木さんご夫妻も仲間入りです。
私たちは出発地で鳴沢氷穴を見学しました。洞窟の延長153メートル、一部身を低くやっと通れるほど、 地底21メートルは気温0度、 別世界に巨大氷柱が輝き”もう少し冷気に浸たりたかった”が実感。
樹海に点在している”溶岩樹型”は垂直の穴や筒状もあり、かつてここに巨木があった証。 ツアーで洞窟見学は3箇所目、溶岩樹型などを 見るたび”地球の巨大アート”に驚き、感動するばかりです。
猛暑の炎天下! 水分補給も直射日光や照り返しで直ぐに蒸発してしまうほどでした。
富士は雲に隠れて残念! 代わりに純白のアジサイや赤と青のサルビアなどの花々が疲れを癒してくれました。
10キロ余りの沿道130人の集団は、ひとりの熱中症を出すことなく無事に河口湖畔に到着。 冷えたビールが渇いた喉を潤してくれました。
高木さん夫妻は、初参加とは言え、若さと日頃の練習の甲斐あって健脚ぶりを発揮、 終始先頭グループをキープされ、老人に比べ疲れを知らない様子、 すこぶる元気でした。
8月、河口湖から時計廻りの今日の目的地は、富士吉田の北口本宮富士浅間神社でした。
ツアーに誘ってくれた田端さんは、140キロ”完全踏破の日”で、絶好調です。
左に河口湖、右に富士山、暫らくは贅沢な風景を満喫しながらのウォーキングでした。今日の富士山頂は灰色でした。 浅間神社は登山口にありました。富士吉田は信仰の登山口、 “お山じまい”を告げる吉田の火祭りは江戸時代から続き、一週間後です。 大たいまつが善男善女を照らす勇壮な祭りです。
ことしも”山ガール”たちに惜しまれつつシーズンに幕を閉じるのです。
ユーラシアなど地球の3プレートが集中する富士山は特異な場所、度重なるマグマの噴火と長い歳月に噴石や火山灰が降り積り、 溶岩流が広大な裾野をつくって来ました。
「(略)約70万年前、小御岳(こみたけ)活動、スバルライン終点小御岳神社付近がそのときの頂上で 約2300M約8万年、 前古富士(まえこふじ)が活動約3000Mの成層火山を形成、侵食されて2700Mとなる。 次の約1万年前の火山活動で古富士 (こふじ)を覆い頂は、再び3000M級になる(略)・・・」(旧建設省資料 より)
富士山に登って 山岳の大きさを語り
大雪山に登って 山岳の廣さを語れ
大町 桂月
踏破の証明を受けた田端さん、参加者からも祝福され満面の笑み、至極ご満悦です! 帰路に友人も駆けつけ居酒屋で祝杯 “おめでとうムード”の一日が終わりました。
⑤忍野八海を経由して花の都公園へ、歩きは12キロ
9月、快晴の富士、山頂が心なしか近くなったようです。
出発前に歴史民俗博物館を見学、木花開邪姫像ご対面できました。ここもかつて流出した溶岩台地だったのです。 信仰登山者を迎える御師の 資料などが豊富な展示でした。
一行は途中“忍野八海”に立ち寄りました。 この一帯はかつて湖?下がった水位で池が残ったとか? 湧池、鏡池、菖蒲池、底抜池、濁池、お釜池、 銚子池、出口池の八つを廻ったのは初体験でした。
池を“八海”に例え“樹海”や“雲海”と共に粋な呼び方、 富士の豊富な湧水を貯え透き通った海に魚影を追いながら、しばしひと息入れました。
ぐるっと!山麓を歩きますと各地に広い公園などが整備され、裾野がさまざまに活用されている姿がありました。
広いススキの丘陵では自衛隊の戦車やヘリコプターも見えました。
森林が突然消えると大きな墓地、墓苑、温泉施設や遊園地の出現、 五湖周辺には火山や自然科学館などもあり火山や自然の学習の場、沿線に 点在する道の駅はオアシスでした。
神社が多いのは富士が霊山のせいか、ただ多くの噴火口跡(寄生火山)には全く気がつきませんでした、 長い年月ですっかり木々や樹海に 覆われたからでしょうか。
「(略)富士がいまの形になったあとも新しく火山活動があり、奈良時代から江戸時代15回も噴火を繰り返したようです。 特に延暦・貞観・ 宝永、延暦19年(800年)35日間も噴煙、 昼暗く夜は火柱が上がり火山灰が東海道足柄付近を埋め尽くす。 貞観6年(864年)では 地震とともに溶岩が湖に流れ込み精進湖や西湖ができ、溶岩流は青木ヶ原を形成。 宝永4年(1707)の噴火では遠く江戸にも降灰をもたらした。 過去200年~500年に1度の大噴火を繰り返していました・・・」(旧建設省資料より)
地球の誕生、列島創造など自然の威力と地球規模の破壊力には、計り知れないエネルギーを感じます。
現在、私たちは東名高速や新幹線から富士の山腹に大きく抉られた噴火口を目にします。
観測機器や情報も無い時代の天変地異、 富士の噴火や地震はどんなに恐ろしかったことか溶岩流の被害で住まいを追われ集団移住をした 集落も歩いて始めてその事実を知りました。
富士山の歴史も奈良時代から江戸時代となるとやや身近です。
噴火や火山災害の記録、伝説や名所旧跡など話題の宝庫、 知識欲を十分満足させてくれました。
カタハラニ 秋クサノ花カタルラク
滅ビシモノハ ナツカシキカナ
若山牧水
終点の「花の都公園」は、3万㎡の広大な敷地にお花畑と温室がありました。 ヒマワリからコスモスへ衣替えの季節、キバナコスモスの 群生が圧巻でした。 常に違う花々が移りゆく季節を楽しませてくれるのだそうです、もう一度訪れてみたい花の撮影スポットでした。
⑥須走富士浅間神社まで・・・残り13キロ! ~最終回~
10月、山麓は秋色、最後のウオークは惜別にも似てやや感傷的な気分で歩きました。 先月の終点「花の都公園」から山中湖を左に見ながら通過、富士五湖の全てが山梨にあることも知り、 山中湖が一番大きく標高も高く 最も富士に近い湖でした。
朝には見えていた富士山頂はすっかり雲に隠れてしまいました。
籠坂峠は悲しい歴史も秘めたところ、戦国の世なら北の武田氏と南の北条氏の国境”手形なし”で通るのは至難なはず、 私たちは簡単に 峠越えして甲斐の国から駿河の国、駿東郡小山町です。
私のウオーク振り出し点須走、ひと廻り”山麓歩き”は無事終了。 140キロを元気に歩けたことに感謝し浅間神社に踏破の報告もできました。
須走はまた還暦記念初登頂の登山口、感動のご来光や巨大噴火口のお鉢めぐりなどは遠い記憶ですが、 須走東口浅間神社は新たなご縁の 場所となりました。
「(中略)平安時代、不気味に黒煙をあげ火を吐く山、真っ赤な溶岩の恐怖の山、 この荒々しい神を”浅間(センゲン)神”と呼ぶようになった。 長野の浅間(アサマ)山、三重の朝熊(アサマ)山が”火山”を意味した。 噴火の沈静を祈って祀られた”浅間(アサマ)神社”がやがて音読みの “センゲン”となった」と。(遠藤秀男著「信仰の山」より) 富士(フジ)でなく「浅間(センゲン)神社」への疑問、 その謎がようやく解けました。
日本のシンボル”富士” 昨今は山ガールたちや海外からも随分注目されているようです。 ユネスコ”世界文化遺産”への動きには、木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)もさぞお喜びのことでしょう。
私にはやや甘い響きです、以前”自然遺産”に指定されなかった訳を改めて苦く残念に想うからです。
“霊峰富士”は自然も歴史や文化面でも世界に誇れるスポット。 富士の周辺”ぐるっと山麓ひと回り”は、自分史の貴重な1ページになりました。
後期高齢直前おぼつかない足どり僅かな気力、自分を褒めつつ旅の締めくくりとします。
多くのみなさんのご支援とお力添え、ほんとにありがとうございました。
いまなぜ 富士山? ~連載の終りに・・・~
拙い悪文の連載にまで目を転じていただき感謝し、激励には深くお礼申し上げます。
ツアーに誘ってくれた田端さんからは写真の提供、HP連載を企画した高木さんは夫妻で参加自ら撮影担当、 編集や入力作業は小森さん達 ボランティア、広報部のみなさん。
3.11東日本大震災は、全てが未曾有の想定外、ツアーの存続さえ危ぶまれました、 以来、私のウオークは、お見舞い、追悼、復旧・ 復興、祈願の旅に変わっていました。
富士は300年前”宝永の噴火”から休止しているだけのこと、眠りから覚めないで!土石流や噴火などで暴れないよう! 歩きながらも 願わずにはいられませんでした。
われわれを取り巻く数々の”安全神話”は、いま早急に吟味を迫られているようです。 原発などのニュースも消えて一日も早く「災害列島」の 汚名返上を願って止みません。
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