2丁目 植木 育雄
不安と緊張の旅立ち
機内は、ほぼ満員、乗客は殆どロシア人。
機内食は乾いたパンのサンドイッチとジュースだけ。アルコールサービス無し。
この旅、ガイドもいなけりゃ添乗員もいない。言葉は通じない、文字もアルファベットじゃなくてキリル文字、嘗ては鉄のカーテンだった国。 しかも、連れは頼りにならない上、おもしろくもない弟。
極度の不安と緊張の中、どうとでもなれとばかりに、ウラジオストック着陸、ところが搭乗ブリッジを歩いていると、後方から若者二人連れの日本語。 聞けば、露国留学経験あり、日常会話OKと。しかも我々の今宵宿泊のホテルを知ってるし、彼らの民泊先も近所だとのこと。
「ご一緒しましょう」との有り難い申し出をうけSIMカードも彼らと一緒に入手し、バスで約1時間のウラジオストク駅に向かった。
駅からホテルへ、途中のスーパーで、彼らに倣いロシア風の総菜とビールをゲットしホテルへ21時頃チェックイン。自室居酒屋の開店となりました。
ウラジオストック街歩きと全長9298キロ列車発車
翌15日(水)。曇り空。ウラジオストックは緯度は札幌と同じなので寒くはない。経度では広島と同じ、なのに時差は日本よりも1時間早い。
今晩のシベリア鉄道モスクワ行き列車のウラジオストック発車時刻は21時52分。
ホテルに荷物を預けて街歩きに出発。“日本から2時間半のヨーロッパ”のキャッチフレーズの通り、古風な欧風の街並み。
ウラジオストックはかつてソ連太平洋艦隊の母港だった一大都市であり、ソ連崩壊までは外国人立入禁止の都市だった。
当然シベリア鉄道も始発のウラジオストックからは乗車できず、当時の上陸地ナホトカから連絡列車に乗車し、途中で列車を乗換えたと宮脇俊三の書にあった。
ソ連崩壊後の今では、市街一望の鷹巣展望台から港の俯瞰写真を撮っても、桟橋から軍艦を間近に撮影しても、ミサイルを撮っても、 軍人や警官やKGBさえ何も言わない。ここでも、中国人と韓国人の観光客が平和そうにあふれ、土産物屋には日本語も散見。
街歩きしていると横断歩道の青信号時間がやけに短い、20秒。だから、青信号途中では渡りきれない。渡りきるには信号待ちしてスタートする必要アリ、だが多くの運転手諸氏は渡りきるのを待ってくれる。
時間つぶしにエレクトーチカといわれる近郊電車に乗って、昨日着いたウラジオストック空港へ往復する。
この電車エアポートエクスプレスと銘打つも、4両編成で一日わずか5往復。駅へ入場するには手荷物検査を要する。スーパーのレシートの様な切符を買って乗車。
到着した空港駅では制服おばちゃんが乗客の最後尾に全員改札出口を通過する迄後をつけてくる。
空港ビルに入るのにまた手荷物検査。だが、昼間の空港は昨夜と違い、人も多いし、多くの売店が開き明るい感じがした。
夜となり、駅に発車約2時間前に行くと、また、空港のような手荷物検査があって待合室に入室。だが、やることもない。
待合室ベンチの対面に、酔っぱらいが携帯電話でどこかに文句言ってる様子、こちらに飛び火しないか恐れつつ、今夜から4泊5日の宿となるノボシビルスク行き第7列車をひたすら待つ。
その間にイルクーツクやハバロフスク行きの列車が先発していく。本来ならば6泊7日でモスクワ直行のロシア号に乗りたいところだがロシア号は隔日運転で、今日は残念ながら運休日。
今回のプランニングでの難関は、週4便の成田→ウラジオストックの航空便と、隔日運転されるシベリア鉄道ロシア号のスケジュール、それに2等寝台4人部屋の下段寝台2名分を同じ個室で確保することだった。
結局第一希望のロシア号は下段寝台2席が確保できず、代案の2本の列車を乗り継ぐ形となったのです。
発車1時間前に待合室の電光掲示板の発車ホーム案内が「?」から「3」となりホームに降りる。
乗車口に立つ女性車掌にパスポートを見せ彼女の持つリストと照合して乗車。
荷物整理に手こずる内に列車は音もなく発車。9298キロの旅がスタート。
4人部屋の2等寝台に同室者はいない。
ようやく落ち着いたところで持ち込みのビールで乾杯、銘柄は「アムール」、ペットボトル入りなのがミソ。
ところがベットや枕のシーツセットと歯磨きセット、車内用スリッパを持って現れた車掌さん、「車内禁酒だ」と制服の腕章を示しながら厳しく言ってる様子(ロシア語が解らない)。又「今日のところは見逃します」とも優しく言ってる様子。
日露友好の為、事を荒げたくないので静かに持ち込んだ分だけ頂いて店仕舞い。
すると思いがけず食堂車から翌朝食用のパンとサラミ等がはいったボックスが届く、質素ながら美味しそう。
車内は密閉2重窓で、室温20℃に保たれ、半袖Tシャツに着替える。
ベット幅は55乃至60センチでやや狭いものの充分快適。寝台にシーツをセルフサービスでセットの最中、頭をぶつけてこぶ作る。痛さ我慢して就寝...
ハバロフスク→バイカル湖
5月16日(木)、ハバロフスク(モスクワまで残り8531キロ)には翌朝9:54着。定時運転だ。40分停車となる。
多くの乗下車客があるがロシア人ばかりで日本人らしき姿はない。因みに我がコンパートメントでも途中駅から乗車してきた海軍制服らしき軍服の男性と、あと1人は夜中3時頃にも男性が乗車して来ていたが、その軍服男性は当ハバロフスクで下車。
乗客はくつろいだ様子でホームに降りてヤニタイムや買い物でリフレッシュ。
私は先頭機関車から編成をチェック。1等寝台(2人個室)1両、2等寝台(2段寝台4人個室)6両、3等寝台(3段寝台が通路を挟みコの字型に廊下側にもある、9人部屋)10両、食堂車1両の18両編成。赤くてゴツイ電気機関車が牽いている。
発車して暫くすると短いトンネルを抜け、アムール川鉄橋に差し掛かる。橋の全長2キロとか。重要設備の鉄橋には警備兵が配置され銃を片手に見張っている。
今度は昼食のアルミホイル箱が食堂車から届く、中身はソバの実を炊いたものとハンバーグ。我々の切符代には乗車日の朝と昼食が込みの様だ。
沿線は起床した時から既にシベリアの核心部に突入している。
シラカバや針葉樹交じりの樹林帯が何処までも続く。電柱もない、畑もない、信号もない、ないはずだ道路がない。
線路に沿って両側50メートル前後は焼き払われている。柔らかい雨が降ってきた。
オプルチェ(モスクワまで8198キロ)15:43着。ここから時差が1時間遅れて日本時間と同時差となる。
同室のあと一人の乗客も下車していく、この御仁は駅に着くたび何駅だと教えてくれた。
この駅から一部屋を弟と二人で貸切状態が続く。
気分転換に15分停車の合間にホームへ降りる。すると警官二人に手錠をはめられた中年男がわめきながら下車していく。
魚の燻製売りがホームを歩く。発車間際に燻製売りのそのおっちゃん、全部売り切れて煙草ふかしながら余裕の様子で帰って行った。
周りはトタン屋根の民家。寒そう、しかし家内は暖かいのだろう。
この先ヤブロノイ山脈越え区間に入る。日本の山脈越えとはスケールが違う、地図でも茶色の色分けがグッと濃くなる区間だ。
Ωカーブが連続する。すれ違い列車が180度カーブした谷の向こうから次々と降りてくるのが見える。
長編成の貨物列車が連続するときは約3分毎にすれ違う。
シベリア鉄道はシベリアの動脈。貨物輸送はほぼ100%(原油・ガスは鉄路に沿ってパイプラインがある、地表には見えない)鉄道に負っているのだろう。
中に客車1両だけをつないだ電気機関車とすれ違う。
我が列車は2時間前後停まらないが、その間には小さな駅や、それに駅名もなく駅舎もない、ただキロ数だけ表示した短いホームだけの簡易駅もある。
そうした駅を受け持つ区間運転の普通列車に違いない。まさか回送列車じゃあるまいし。
ずっとキロポストは律義にあるが勾配票が見当たらない。
車内に酔っ払いがいる、車内禁酒でも食堂車はアルコールを提供している。
私の昼食は持ち込みのインスタントラーメンだった(客車の車掌室前にはサモワールがありいつでも熱湯がもらえる)が、夕食は食堂車に行く。
すると、いるいる酔っ払いが。食事はメニューにあってもニィエットばかり。あるものの中からチキンのチーズ焼きを頂く。まずくはないが量が少なく値段は高い。
夜は緯度と時差の関係で21時ごろまでは明るさが残る。明後日のバイカル湖畔通過に期待し。二日目の眠りにつく。
5月17(金)日、今日も同じ様な風景が続く。
道は泥んこ道、残雪残り、川面はシャーベット状、多くの木々は芽吹く前だが、トド松には若葉が芽吹き、山ツツジとかロウバイがほのかに咲いている。
朝9時過ぎに焼きたてパンの車内販売が食堂車より来る、ピロシキとソーセージドックを買い求める。
今日も小雨が降ったりやんだり。
アマザル(モスクワまで7012キロ)で18分停車、この駅では近隣のおばちゃん達が露店を出して、ピロシキ・茹で卵・水餃子・茹でソーセージ・茹でたジャガイモ・ピクルス・コールスローサラダ・正体不明の瓶詰や缶詰等販売していた。
ホームの物売りも衛生面か警備面からか次第に締め出されているようで、この駅(アマザル)がこの旅唯一の風景だった。
夕食にまた食堂車訪問。モンゴルとの国境近くを走行しており、今日はモンゴル系露人グループが酔って一遇を占拠。
一人の男が弟のカメラに近づいて何やら喚く。赤パンツの男がリーダーらしく、たしなめる合図で引き下がった。
食堂車には夜は酔っ払いが多く、静かに食事とかビールという雰囲気ではない。
一般客は持ち込みのパンやソーセージ、キュウリやトマトといった野菜で食いつないでいるようだ。
もっとも地元客は我々物好きの様に、こんな列車に何日も乗らない。
飛行機で一っ飛びするのだ。だからロシア号も嘗て毎日運転だったものが隔日運転になったのだ。
夜半0時過ぎトイレで起きるとシルカ(モスクワまで6451キロ)に停車中、窓の下には下り列車を待つ乗客4人、警乗の警官2人がホームで寒そうに列車待ち。駅前広場には急ぎ歩きの人影も見える。
5月18日(土)5時に目覚めるとチタ(モスクワまで6204キロ)に停車中、沿線主要駅だ。
窓に雨が振り掛っている。
7時に起床すると沿線は雪に覆われている。積雪量は5センチぐらいかな。一旦溶けた地面に積もる雪、春の雪。
車内の室温表示は流石に19℃に下がっている。車内サモワールは大活躍、コーヒー・紅茶・スープ・インスタントラーメンに乗客はフル活用。
事前情報ではサモワールは石炭燃料とあったが電気だった。車掌さんは1両に逞しい女性2人。終点までの通し勤務で2人で交代制、トイレ掃除やら、掃除機で個室内から廊下も掃除で大変そう。
窓外には広すぎて、変わり映えしない光景を綴るのも疲れる。
いつか雨に変わっていた雪もモグゾンを過ぎたあたりからまた、雪に変わって降り積もる。
雲が低く立ち込め、空はどんより、拡がる沿線も農地か牧場なのか荒れ地か解らない。
牽引機関車も塗装が水色の物に変わって牽いている。
すれ違う機関車もロシア電気機関車事情に疎い私だが旧式っぽくなってきたように思われる、又塗装がカーキ色系の物が多くなってと感じる。
8:57、モスクワから6000キロポストを通過。3259キロを走破し、1/3乗ってきた勘定になる。
人間の痕跡の無いシベリアと思っても、森林の中に散乱するゴミ、プラ袋やポリタンク、空き缶、ブルーシートから、そうでないことが判る。
打ち捨てられた廃屋にもチャンと廃プラの類が残されている。
通過する小さな集落に教会が見えた。
線路より一段高めの山道に走る車が見える。しばらく並走するが、山道なので列車の方が早いに決まっている。
道路が下がってきたが舗装路でもない。すると、抜かれていた車が前照灯を点けて猛スピードで追い抜いて行った。3300キロ走ってきて初めて車に抜かれた。
ヒロワ(残り5940キロ)10:05着。1時間停車。
車内にイギリス・グラスゴーから来た世界一周に近い大旅行中の英人がいた。
52才。日本では東京・富士山・京都を巡って来た、と言う。
彼のこの旅ではベネゼエラ(国境近くを除くと安全)・ミャンマー・メキシコ(除くカンクン)が良かったという。
これからウランバートルからコーカサスに廻り、クロアチア辺りでイギリスの彼女のお出迎えを受け帰国するとの由。
孫もいるし、宝石のデザイナーをしているとか。
しかし、彼はグラスゴーに住んでても、すぐ近くのスコットランドには行ったことがない、スコットランド人は嫌いだ(私の英語能力で誤解が無ければ?)との弁。
イギリスの断面を見た感じ。
蒙古族が車内に増えた感じがする内にウランウデ15:07(残り5647キロ)着。活気あふれる大都市だ。トラムの線路もみえる。
何よりもモンゴル風情が漂う街、人々、ビルの様式、溢れる広告に色濃い。
また、北京・平壌からモンゴルを通じてモスクワまでの直通列車が合流する駅だ。
だから、駅構内にはモンゴル鉄道(赤紫色)の客車が大量に留置され、反対ホームには中国鉄道の客車(緑)がロシア鉄道車両と併結され停まっている。
車内で知り合ったイギリス人も下車していった。彼は駅5分のホテルを予約している、温かいベッドとシャワーが恋しいと。
白人系の鉄ちゃんが2人、写真を撮っている。しかしこの2人は仲間のようには見えない。
シベリア(旅を通じてわかったがロシア全体)ではサービス業でもホテル以外英語が通じない、高級レストランは知らないが、食堂・ファストフード店ではなおさら、だから指差し注文。
街中のインフォーメーションもお上りさんロシア人に対するインフォーメーションである。
大旅行中の英人も私程度の中学英語でも話せたのが嬉しかったのだろう。
ウランウデを発車した列車は快調に走り出した。これまでになくスピードが上がっているのを感じる。1キロポスト間を30秒で駆け抜ける。時速120キロになる。
右岸から左岸にわたる鉄橋を通過、例のごとく監視所がある。しかし監視兵はいない、代りに防犯カメラが見張っている。
合理化か、働き方改革か。すると車窓眼下の川底に崩壊して落下した鉄橋トラスが横たわっていた。
バイカル湖→クラスノヤルスク
ついに17:30頃バイカル湖畔に列車は躍り出た。透明度世界一、シベリアの真珠とうたわれるバイカル湖だ。
しかしながら左車窓バイカル湖側は曇天だ。右車窓は晴れて、雪山が続く。
その山肌の雪面を太陽が美しく照らす。だが、バイカル湖は残念ながらシベリアの真珠とは感じない、
雪解けの濁り水が流れ込み、湖面は鈍く静まり、入江には氷が打ち寄せている。
小さな氷山も浮いている。これから2時間、湖畔を付かず離れず走る。
19時となって食堂車に行く。バイカル湖に祝杯しようとした所、ウェートレスのね~ちゃん二人、ワインをおごれと抜かす。
まるで昔のキャバレー、そんな金はないのでニェットとお断り。食堂車もお国柄か?
小さな峠越えでは眼下に湖面を見下ろす。車窓からは沖行く船も見えず、人家も殆どない。
さすがに湖水も透明度を増してきたようだ。
峠を下り右手に、バイカル湖から流れ出て、北極海にそそぐアンガラ川に出会うと、イルクーツク(4107キロ走ってまだ残り5191キロ)22:24着。
今までのどの駅よりもホームに多くの客が乗降する大都会。28分停車する、定時運転。
駅からは遠くアンガラ川を挟んだ市街地のビル群の中に電飾で縁取られた観覧車が回っている。
列車に揺られもう3泊、曜日感覚はなくなっているが明日は日曜日だと思い出す、週末の観覧車は忙しいのかな?
駅舎の電光掲示板の外気温は8度、ホームの野良犬が犬連れ乗客の犬にほえている。どちらの犬も大型犬だ。ペットの犬は動じない。
元横綱朝青竜を小さくしたような男がロシア美人と別れを惜しんでいる、彼のスマホで写真を撮ってくれと言われる。
気に食わないが心を隠してにこやかにシャッターを押してあげる。
ホームの売店で朝食用のピロシキとビール(車内禁酒のはずなのに)、ジュース。熱い紅茶を買って350ルーブル。
ホームの端に煙が上がっている、スワッ!SLかと近づいて目を凝らすもサモワールに石炭を使う客車がいただけ。
日本だとストーブ列車と似たようなもの。列車にはシャワーがあり300ルーブルで使える旨ポスター掲示あり。弟が利用したが私は面倒なのでパス。4泊目の就寝。
5月19日(日)5日目の朝をクゥイトン付近で目覚める。満月が西に沈み、東の空は朝焼けだ。この旅初めての好天だ。
西シベリアの平原が広がり農地となる、土は黒土、肥沃な土壌と見える。
家々の屋根は茶色や緑。トタン屋根ばかり目立った東シベリアとは様相が違う。
今日は日曜日、昨夜イルクーツクから乗車してきた対面上段寝台の客は重機の運転手という、彼の見せるスマホの写真と「ドライバー」ということから判断、ひょっとしたら違うかも。
この列車の終点ノボシビルスクまで行くという、彼は今晩も車中1泊だ。
私の上段寝台の客は昨夜イルクーツクで下車、その後乗ってくる客はナシ。
タイシェト発10:05(モスクワまで残り4521キロ)。発車後キロポストを見ると4510キロ。
いつの間にかモスクワまで残り5000キロを割り、モスクワまでヤット半分を超えた。
シベリア鉄道には静態保存されたSLが多くの駅にみられる。
沿線都市にはシベリア鉄道に従事する多くの鉄道員が暮らし、車両を整備し保線に従事しながら鉄道を支えてきた。
それは鉄道あっての町なのだ。その誇りがSLの静態保存に表れているのだと想像する。
イランカ(モスクワまで残り4382キロ)11:31発。この駅にも保存SLあり。
この付近農地の野焼が盛んに行われて、方々に煙が上がっている。害虫駆除、灰の肥料と一石二鳥、奈良の若草山の野焼きのようなものだ。
都市が近くなると、ロシア市民の別荘、ダーチャが密集してくる。
週末には都市から家庭菜園付き別荘にやってきて、畑仕事に励み、リフレッシュと食料自給の生活を送り、収穫物と共に都市へ戻るという。
クラスノヤルスクが近づいてきた、そこで途中下車し別の列車に乗り換えるスケジュールだ。
エニセイ川を渡る。大きなハシケが岸壁に着岸し多くの貨車がその岸壁に横付けしている。
川には観光船が浮かんでいる。
15:53にクラスノヤルスク(モスクワまで残り4103キロ)到着。
同市は人口160万を擁するシベリアでは第二の都市、広々した駅前にはバスがあふれている。残念ながら地下鉄はない。
この町ではホテルでの数時間の休憩・シャワーのバウチャー券があるので、キャリーバッグを駅に預け、ホテルを訪ねて街歩き。
日曜日とあって、家族連れ等、街行く人は若い人(私の英語が通じない)が多い。老人は少ない、殆ど見かけない。
都市のわりに車も少ない。街並みはウラジオストックより新しい。ウラジオストックは古都、クラスノヤルスクは新興都市だ。
赤い広場だとかソビエト風の地方庁舎、ビジネス街、公園に遊園地、映画館だとか繁華街をたどる。
ファストフード店もあり町の中心地にホテルはあった。垢を落として、ベットで暫し休み、駅に戻る。
帰路にはスーパーに寄ってパンとバナナとジュースを補給する。
バナナはセルフサービスの量り売り、①タッチパネル画面でバナナの絵にタッチ(単価が表示される)②台座に袋に入れたバナナを置く③計量して値札が出てくる④値札を袋に張り付けてレジへ。
何人か前の人のやり方を学習して、マスターしたのだ。パンの種類も多く馴染みのないパンがおもしろい。
モスクワ行き第99列車
戻った駅でキルギス人2人連れが話しかけてきた。
中国人・韓国人はともかく、日本人に合うのは初めてだという風だ。相変わらずロシア人とは会話ナシ。
預けたキャリーバックを受け取り、手荷物検査を受けて駅に入りホームに立つ。
手荷物預かり所の係員は明るく親切、一方手荷物検査の係員は厳しい顔。
乗るべきモスクワ行第99列車がホームに入ってきた。男性車掌にパスポートを見せて乗車、乗車券・Eチケットはチェックしない。
この99列車はウラジオストック発のモスクワ行き。
何故始発からこの列車にしないのか旅行社の理由は判らない。直通の寝台券が入手できなかったのかな?
只しロシア号が特別急行なら99列車は遜色、昨日までの07列車よりくすんだ感じがする。
設備的には同じだが、絨毯も色褪せ埃っぽく、つなぎ目が大きくめくれている。
同室のセルビア生まれのロシア人は英語が話せる。
建設関係に従事し、4日間の出張でノボシビルスクへ行くという。
東京オリンピックも知っており、3才の女の子がいて離れるのが寂しいと言っていた。
だが、娘さんとは毎日スカイプで会えるのだ、お土産は甘いものだと。
さて、当方は先ほどクラスノヤルスクのスーパーで仕入れたパン、日本から持ち込んだレトルト野菜スープで夕食とし5泊目の車中となった。
5月20日(月)タイガ5:49発、線路わきにはタンポポが咲き、白い花をつけた樹木、線路沿いに連なって咲く様子はとても美しい。
タイガという寒そうな町を過ぎ、徐々に気候帯が温かくなってきたようだ。
食堂車から朝食のボックスが届く。中身は前回と同じパンとサラミと水、クッキー。同様に昼食セットも届く、中身は少し変わってタコスのようなもの。
ノボシビルスク
10:31シベリア第一の都市ノボシビルスクに到着。
ロシア全土でもモスクワ・サンクトペテルブルグに次ぐ第三の都市ノボシビルスクを発車。
北極海へ注ぐ、オビ川を渡る。バラビンスカヤ平原を突っ切るように快走。1キロを30秒=120キロ/時、周囲は湖沼を交えた草原が広がる。人家も絶えてない。
機関車の最高速度は160キロ、客車は140か160キロ、性能いっぱいの走りが続く。
13:48着のバラビンスクでは袴線橋から柵越しに、ホームから締め出された物売り達が地元産らしき干し魚や毛皮などをホームの客に必死になって声を上げて売っている。
中にはおもちゃなどを売っている者もいる。手に持てるだけの限られた品物を売る小商い。何の足しになるのかと思う。
となりホームでは、さりげないふりをしたおばちゃんが3人、干し魚を詰めたビニール袋を持ち、たむろしている。
そのうち2人の警官が現れ、おばちゃん2人を連行しようとするが激しい抵抗にあい、連行をあきらめた。
おばちゃん達も去っていく。寸分おかずにそのホームに列車が到着、おばちゃん達は小遣い稼ぎのチャンスを喪失。
列車は快走再開。
農業地帯なのか牧畜地帯なのか未開地なのか不明。
水があふれて線路間近に迫るところもある。雪解け水なのかな?
すれ違いの貨物列車が減ってきたようだ。昨日日曜日だったからかな?
車内清掃に男性車掌が来る、07列車の女性車掌より無愛想。男性車掌の来ないときは女性車掌だ。
車掌室は同じ個室だ。二人は夫婦な感じ、女性車掌は休憩時はオレンジ色の部屋着を着て車掌室で寛いでるんだもんね。
オムスク16:42着。1時間停車、するとバキュームカーが2台、車両に横付けし作業開始。
トイレはタンク式で垂れ流しでないし、ましてや7泊8日も走りゃあこういう作業が必要なのだ。
今日、その現場見るのは初めてだが夜間寝てる間の停車時間にも作業されていたに違いない。
20両近くつないでいるので順番待ちでも時間がかかる。反対側のホームでは窓に金網が張られた車両から、黒い服を着た7~8人の人物が後ろ手に縛られ、ホームに乗り入れた護送車らしきものに送られていた。
周りのロシア人たちもジッと無言で眺める様子だった。
スターリンの収容所列島時代を思わせる暗い時間が流れた。彼らはどこに送られるのだろう、彼らの未来は?
バキューム作業に手間取ったのか18:05発、1時間23分の停車後発車。
にわか雨の雨上がりの樹林帯に夕陽が射し、雨ダレに夕陽が反射して美しい。食堂車も7列車から99列車へと担当が変わったので行ってみる。
ボルシチ、チキン、パン、ビールで1000ルーブル、ボルシチの注文を忘れていたりパンが少なすぎたり問題多い食堂車だ。
円なら2140円、会計時に明朝の朝食予約のセールスを受けて応諾。
市場経済化の波が予約受付というビジネスに及んだのか?
07列車の安キャバレー然とした食堂車といい、ソ連時代を知らないだけに早計な判断は出来かねる。
それとも2者の在り様は体制の及ばぬ庶民レベルのシベリア鉄道の生き方なのかもしれない。
列車の下を潜らないように!というステッカーやポスターを見かける。
隣りのホームや改札口に行くのにその間に列車が停まり邪魔する場合があるのだろう、焦って行こうとして、潜ってる間に列車が動き出す、足の1本ならず、身体ごと切断されることもあるのだろう。
我が国と違い列車は長く、跨線橋も大きな駅以外ない、ホームの駅員さんもいない。
駅で3本足の野良犬を見かけた。
5月21日(火)エカテリンブルグ5:00着で5:32発。
この間32分の停車時間中に、隣のホームから5:20頃第91列車モスクワ行きが先発。
続いてその空いたホームに6:14発となる第109列車モスクワ行きが到着。
発車時刻・列車番号と行き先は駅の電光掲示板で分かるが何処発なのかキリル文字なので解らない。
列車の愛称名もなく、いずれにしてもこの時間帯モスクワ行きが集中して発車していく。
ここからウラル山脈越えが始まる。アジアとヨーロッパを分かつ山脈である。
山脈といえどもなだらかな丘陵・起伏が縦に帯の様に連続する地帯。
縦の丘陵越えの間には都市も存在すると習った。
線路沿いにはアジア・ヨーロッパ境界を表すオベリスクが建つと言う。
そのオベリスクは1777~1778キロ地点とのこと、目を凝らしてキロ程票を追う。
「あった!!」。鉄路でアジアからヨーロッパへきた。大の男が感激している。
シベリア鉄道乗車の金字塔なのだ。これを見なくて何を見る。
いつの間にか小雨が降っていたものが雪に変わる。アジアで見る雪も最後かと、その雪も山脈過ぎて下ってくれば晴れて好天。
キロポストも残り1505キロ、あと24時間後にはモスクワ着。
昨夜予約のモーニングをいただきに食堂車へ。卵3個の目玉焼き、パン、コーヒーのセットで410ルーブル。
高速道路が現れ、線路の下を潜って伸びていった。都会の道路と、線路と交差する主要道路と思しき道は舗装されているが、生活道路は未舗装が目立つ、場所によってはぬかるみ道だ。
バレズィノ15:07発、牽引する機関車が変わった。
17:40にはキロ程票が1000キロとなった。
時刻表上17:43にキーロフ(残り917キロ)発車。遂に残り1000キロを割る。
ここキーロフはシベリア鉄道の総延長距離カウント上ポイント地点だ。ここからモスクワまで40キロ短い短絡線と旧来の経路を分ける。ロシア号はその短絡線を走るという。
我が遜色急行の第99列車は旧来のヤロスラブリ経由で進む。
イルクーツク以来中国人も韓国人も見かけない。
今朝のエカテリンブルグで見かけたバックパッカーは日本人ぽかった。
21時ごろ就寝、ついに最後の7泊目。
モスクワ到着
5月22日(水)コストロマバヤ4:20にシベリア鉄道の旅最後の起床、天気は雨。
11:43着のモスクワまで残り367キロ(東京・名古屋間に相当)、あと7時間。
変なものでクラスノヤルスク発車後モスクワに近づくにつれ乗客は減っている。
我が個室もノボシビルスクから弟と二人の貸切状態。老人1人だけの個室もある。
7~8人の若い女性グループもいなくなった。
最後の停車駅ヤロスラブリ、6:43停車、雨は上がり、駅前にはトロリーバスが走り、駅前広場に露天の花屋が見える。早朝なのに客もついてる。
パトカーに止められた運転手がいる。
6:48発車、時刻表通り。後はノンストップでモスクワだ。と、思ったところで駅でもないのにストップ。暫くすると優等列車に追い抜かれた。
最終275キロに4時間半要するのはこういうことかと納得する。
モスクワの近郊列車区間なのか11両編成の通勤電車が頻?に通る。その影響で、並行ダイヤのトロトロ運転が続くのである。
しかし今日は暑い。陽が射してきた。この旅最終日で、最高の暑さだ。26~7度はある。
モスクワに近づいて、沿線に工場はあまり見かけない印象だったが、都市は膨張し、新駅が建設中であるのも見た。
駅前にはニュータウンが開け、多くの住宅アパートが建設中だった。だが、森林も続き、シベリアの余韻風景が残る。まだシベリアが勝ちなのである。
シベリア鉄道、ウラジオストックから一路ただ東へモスクワを目指してきたが、このヤロスラブリはモスクワの1時方向250キロにある。モスクワへは南下するのだ。
7泊8日長らくのご乗車ありがとうございました
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