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特別寄稿 第6回 白岡人物伝 鬼窪氏

武蔵七党 野与党の有力武士 中世の雄

白岡市文化財保護審議会委員 板垣時夫

白岡興善寺の節分行事「豆まきまつり」では、「福は内、福は内、鬼はご随意に」の掛け声で豆をまきます。 この掛け声は、中世の白岡付近を治めていた鬼窪氏縁の家で行われる豆まきにあやかっています。
 鬼窪氏は武蔵七党の野与党に属する有力武士でした。武蔵七党とは武蔵国の強力な武士団であり、 野与党はその一つで白岡市付近を中心に活躍しました。
 中世の(鎌倉時代?室町時代)の小久喜・白岡・実ヶ谷付近は鬼窪郷と呼ばれ、鬼窪氏はここに居住していました。 鬼窪氏には南鬼窪氏と北鬼窪氏と二つの流れがあり、さらに南鬼窪氏からは、白岡禅師澄意(白岡氏)を輩出しています。 北鬼窪氏の祖は、野与六郎基永の系譜をひく鬼窪六郎定綱で、南鬼窪氏の祖は鬼窪四郎行親であります。
 この鬼窪四郎行親は『吾妻鏡』に源頼朝の命を受け、元暦2年(1185)3月14 日の 条に鎮西に存った頼朝の弟範頼への書状を遣わす使者として記されています。 これは、平家を滅亡させた壇ノ浦の合戦のわずか10 日前のことです。 この書状には平家討伐や「宝物」のことが記されていたようで、重要なことを伝える使者として派遣されたものです。 このことから鬼窪氏は源氏の御家人衆の中でも信任の厚い人物であったことが窺われます。
 また、建久6年(1195)に白岡八幡宮の社殿造営に際して、頼朝の命により社領百貫文(中世の石高)の 寄進を鬼窪某に使わしたことが『新編武蔵国風土記稿』に記されています。
 その後、時代はくだりますが、武蔵野合戦における観応2年(1351)に記した「高麗経澄軍忠状」(日高市 町田家文書) に鬼窪弾正左衛門、鬼窪左近将監らの名が足利尊氏方として加わったことが見えます。 軍忠状とは戦功を記して、功績に見合った感状や所領を給与されるものです。 これらのことから、出陣し恩賞を与えられたものと思われます。
 このように中世期に活躍した鬼?氏ではありますが、その後の消息は少なくなってしまいます。
 江戸時代の小久喜村名主の鬼久保家祖先「鬼窪尾張繁政」(天正19 年=1591)は、小久喜の寿楽院を開基しています。

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白岡八幡宮の享徳5年(康正2年=1456)銘の鰐口(市指定有形文化財)には、 「武州寄西郡鬼窪八幡宮鰐口 享徳五年丙子八月十五日聖秀尊」の銘があります。

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