白岡市文化財保護審議会委員 板垣時夫
特別寄稿第8回
白岡市は今も昔も教育が熱心な地域です。
これを物語るものとして、江戸時代の寺子屋の充実があげられます。
江戸時代学びの先生は師匠として尊ばれ、各地に子弟が恩師のために建立した報徳碑や筆子塔が見られます。
これらの内、筆子塔は江戸時代の数が近隣で群を抜いているのです。
今回から篠津の寺子屋で活躍した大野雅山を2回に分けて紹介します。
白岡には幕末から明治へ、貴重な寺子屋の記録・足跡を残した偉大な先生がいました。
その名は大野富右衛門、通称大野雅山といいます。
雅山は文政8年(1825年)大野政右衛門の三男として、現在の蓮田市黒浜で生まれました。
幼い頃から真面目でしっかりした考えを持ち、我慢強い努力家でした。
何よりも絵や本が好きで、黒浜の寺子屋で読み書きの基本を学ぶと、その後川島村(蓮田市)の生沢金斎先生について「四書五経」など高度な漢籍を学びました。
また、昼は馬の世話をし、田を耕したり、夜は縄を綯ったりして両親を助けていましたが、どんなに疲れても勉強を続けていました。
その後も農業を手伝いながら、岩槻や川越の本屋さんに通い、高価な本を書き写したりして勉強を続け、金斎先生の塾で教えるようにもなりました。
嘉永5年(1825年)28歳の時、村人達に頼まれて黒浜に塾を開きました。
ちょうどその頃、恩師の金斎先生が個人的な理由から突然篠津の塾を閉めてしまいました。
困ったのは塾生を保護者です。
そこで、代表となった遠藤氏が「篠津塾を引き継いでくれ」と頼みに行きました。
しかし、金斎の弟子であった雅山は「生沢先生が来られなくなったからといって、無断でその後を継ぐわけにはいきません。それに私は開いたばかりの黒浜塾があります。ようやく親しくなった塾生を別れることはできません」と辞退しました。
それでも、遠藤氏が熱心に勧めるのと、金斎先生との間をうまく取りなしてくれたので、とうとう篠津の念光坊(阿弥陀堂)の塾を引き継ぐことになりました。
これが大野塾の始まりです。
場所は現在桜の名所である隼人堀川の高台橋付近です。
黒浜塾の父兄からは「続けて欲しい」と懇願されたにもかかわらず篠津に来てしまったので、教えた分の月謝も貰うわけにはいきません。
おかげで大変な貧乏生活をすることになりました。
そのうち、雅山は教え方がうまいと評判になり、何と鴻巣・桶川・加須のような遠い地区の子も含め、近在38ケ村から塾生が集まり、延べ1000人を教えたといいます。
寺子屋の入学を「登山」と呼び、「いろは」の読み書きから「往来物」という生活に必要なことを教えました。
勉強が進むと「論語」や「孟子」など立派な人間になるための学問も教えました。
特別寄稿第9回
今回は、篠津の寺子屋で活躍した大野雅山の後半です。
篠津の人々に請われて高台橋付近に大野塾を開いていた、雅山の教え方がうまいと評判でしたが、生活はけして豊かではありませんでした。
雅山は授業のないときは近所の畑を借りて耕し、生活の足しにするようにしました。
その様な奥ゆかしい先生を知った村人が、雅山先生のため大きな家を建ててやろうとしたことがありました。
でも先生は、「大きな家よりもあばら屋が落ち着く」と断ってしまいました。
その後、高台橋の畔に自力で家を建てました。
以後、生徒が増えるのに合わせ教室も拡がりました。
明治5年(1872年)学制が発布されると大野塾は篠津学校となり、引き続き雅山先生が教えることになりました。
明治10年には、「教え方が親切で誠意がある。教え子達も、皆立派な社会人になった」と表彰され、金一封を賜りました。
絵の得意な先生は、神社やお寺の境内や田んぼの広さなどを実際の地図と同じように精詳に描くことができたので、授業に差し障りのない範囲で村役場も手助けしていました。
明治19年、野牛小学校を最後に退職するまで、前後35年間も教師を続けました。
退職してからは篠津村役場の戸籍や租税法の改訂事業など、明治新政府に必要な事業にも力を尽くしました。
その後も、鍬を持って菜園を耕すなど全く元気そのもので、時々歴史書を写し取っている姿は、いかにも学問好きの雅山先生らしいと言われていました。
日中は読書か揮毫(きごう)をしていました。特に江戸の書家で四天王といわれた大竹蒋塘(おおたけしょうとう)に学んだ草書が評判で、先生の自宅には揮毫を待つ絹紙(けんし=掛け軸用の紙)が常に積まれていました。
明治30年(1897)、先生の多くの門人達が先生の偉業を讃える顕彰碑(報徳碑)を建てようとしたとき、先生はかぞえで74歳になっていましたが、まだ壮年のように元気でした。
この碑文の上部に篆文(てんぶん)で書かれた題字の篆額(てんがく)の文字は、西郷隆盛の弟で海軍大将だった西郷従道(つぐみち)の書によるものです。この報徳碑の除幕式には篠津村をあげてお祝いをしました。
このようにして、建てられた報徳碑の内容と、先生ご自身が詳しく記された 大野塾の記録により、江戸時代末期から明治初期の一般的な塾の様子を知ることができます。
雅山先生はこの他にも沢山の資料を残して下さったので、この時代の教育のあり方がよく分かると、全国の近世教育研究家からも注目されています。
なお、雅山の人柄を紹介しますと、自身で好きなものとして「教育、倹約、朝起き」、嫌なものとして「他へ行き長話、口論、喧嘩、朝寝」をあげています。
コメント