川の立体交差? ご存知ですか?
埼玉県東部は水害の極めて少ない地域です。近年の大きな水害は明治43年8月の長雨と昭和23年「カスリン台風」の2件のみである。
何故少ないか、それは過去400年前から今日までの治水事業、多くの人々によるたゆまぬ努力のたまものである。
10月17日、悠友会企画として、その辺りの歴史を白岡市観光協会理事の山本一夫さんに「白岡、川物語り」と題して語って頂きました。
広報 柿沼 久雄
【講演要旨】
講演:山本 一夫(白岡市観光協会理事)
見沼代用水は元荒川の下を「伏せ越し」により水を通していますが、江戸時代に作られ、現在に至っています。
ちなみに川の上に水路を通すのを「掛け樋」と呼び、いずれも川の立体交差により用水を通すためのものです。
見沼代用水は埼玉・東京の葛西用水路、愛知県の明治用水とならび、日本三大農業用水と称され、疏水百選にも選定され、世界かんがい施設遺産に登録 されました。
“海なし県”埼玉は、「川の国」と言っても良いほど川面積が多い。全面積(3,800平方㌔)の3.9%に及んで日本一だという。 その殆どは利根川、荒川流域河川である。
白岡市の面積は25㎞平方、ここに流れる主な川は29本あり、その内7本が一級河川である。
白岡付近の河川の特徴として「伏せ越し」「掛け樋」と呼ばれる川の立体交差箇所が9カ所ある。おそらく日本一?
これは人の手で作られたものであり昔から住みやすく実り多い地域を作ろうとする人々の知恵の証である。
白岡には観光資源はないが、このような歴史的遺産があるので、観光協会では白岡に9か所もある川の立体交差を観光のプロモーションに使おうという ことで活動してきました。
観光協会のパンンフレット(pdf)参照
5500年前、縄文時代の白岡付近は「奥東京湾」に面しており海からの幸で人々の生活は潤っていたが弥生時代になると海は引いて湿地地帯になって人が 住まなくなった。
縄文時代の発掘物は多いが弥生時代は全くない。一部残っているのが正福院(八幡神社の裏)の貝塚が残っているだけである。
新井白石は六代将軍家宣のブレーンで白岡市野牛と鎌倉に500石の所領を与えられていた。
白石公は、低湿地で水はけの悪い野牛地区に排水用の白石堀を掘り、農地を改良したり、飢饉に備えて郷倉を建てるなど善政を敷いた。
白石公の肖像画は観福寺に収められている。
時代は下って・・・・近世
1590年秀吉は小田原北条氏の滅亡後、その旧領関東を徳川家康に与えた。
当時の関東平野は利根川、荒川が乱流する水害多発地域、この国替えに家臣団は猛反発したが家康は江戸に本拠を定め直ちに利根川水系の河川改修を家臣団に 命じて積極的に取り組んだ。
1594年忍城主で家康の四男松平忠吉が現在の羽生市付近で二股に分流していた利根川のうち南流する「会の川」を締切り、東方向に流路を一本化して渡良瀬川 に連結させた。
翌1595年には家康は家臣団で徳川四天王の一人、館林城主榊原康政に利根川左岸に33km長に及ぶ大規模堤防を築かせ、三河譜代である伊奈忠次には江戸湾を 河口としていた利根川を東へ付け替えて現在の銚子市を河口とする「利根川東遷事業」に着手させ60年後の1654年に完成した。
これら事業の家康の目的は江戸を水害から守ること、流域の新田開発、水運整備による流通路の確保と北方からの江戸城の軍事的防衛だった。
忠次の系統は代官頭、後に関東郡代として隣の伊奈町小室に居を構え12代伊奈忠尊まで荒川、利根川水系の河川開発に携わった。
忠次その子忠治時代1629年、利根川の支流であった荒川は流れの遅い綾瀬川、星川辺りを流れていた。この狭い地域に渡瀬、大日川なども流れており水害危険 地域だったのでこれを西側の入間川水系に付け替えて独立した荒川水系とした。
これを「荒川の西遷」と呼ぶ。切り離された流路は元荒川となって現在に至るが、水源は殆どなく堤防も江戸時代製で丈夫、決壊氾濫の心配はない。
大雨の時には元荒川に架かる新幹線橋桁の水位指標に注目しているが、先日の台風19号では過去最高水位だったが決壊には至っていない。この流域では水被害 は全くない。それは400年以上前からこのように行われていた治水事業のおかげである。
「利根川東遷事業」以前、白岡を流れていた利根川の分流筋の日川は川幅数百㍍もあったがこの事業完成後水量が大きく減り広大な後背湿地が生まれ、耕地化 が可能になり湿地排水のための庄兵衛掘、隼人堀、備前堀、姫宮落し川など人工の川が開削され新田開発が行われた。
この地域、現在の青我小学校付近で取れた米は「日川米」と言って美味しい。
また、荒川本流が“西遷”したことで下流見沼地域では農業用水が不足するようになり、さいたま市緑区附島と川口市木曽呂との間に「八丁堤」を築いて見沼へ の流入水を堰き止め「見沼溜井」が作られた。
こうした伊奈氏による用・排水を溜井で行う河川工法を「伊奈流(関東流)」と呼ばれた。しかしこの方式は溜井の水の多い時、少ない時の対応で上下流域の 農民の間で水争いが多く発生した。
1716年8代将軍吉宗の時代になると米の生産高を上げようと新田開発が行われた。これに登用されたのが紀伊藩士井沢弥惣兵衛為永である。
この時代見沼溜井の役割が低下していたため1725年見沼を干拓して代わりに「見沼代用水」の開削が始まった。現在の行田・下中条で利根川から取水し川口・ 荒川まで60㎞、上尾・瓦葺で東縁、西縁2本に分かれるので併せて全長80㎞をわずか6ヵ月で完成させた。
この時代見沼溜井の役割が低下していたため1725年見沼を干拓して代わりに「見沼代用水」の開削が始まった。
現在の行田・下中条で利根川から取水し川口・荒川まで60㎞、上尾・瓦葺で東縁、西縁2本に分かれるので併せて全長80㎞をわずか6ヵ月で完成させた。
この干拓で1,200ha土地が生まれ米5千石が増産された。
見沼代用水が生まれてできたのが川の立体交差「伏せ越し・掛け樋」そして閘門式運河「見沼通船堀」です。
この様に用・排水路を段差を付けて分離する河川工法を「紀州流」と言われ、それまでの水争いが解消された。
完成した用水路は江戸から船で掛け樋を伝って行田まで上がれる水路として多目的化した。
川沿いの柴山、菖蒲地区は賑わいができた。しかし掛け樋は大雨で度々流されるので30年後には伏せ越しだけとなり物流は柴山で乗せ換えとなった。
柴山地区は人々が多く集まるようになり川魚料亭などで賑わい“白岡の奥座敷”と言われ今でもその名残がある。
そして現代へ
スーパー堤防のこと、構造の特徴は高さと幅の比が1:30で10m高さだと300m幅を設ける、これは余りにも非現実的規模、全国3万9千の河川に造るのは建設 費用、完成期間からしても無理、大都市の僅かな部分しかできない。
もう1件防水事業の話し
春日部、国道16号沿い地下にある「首都圏外郭放水路」通称“彩龍の川”の話しします。
東京を水害から守るため造られた放水路で古利根川から江戸川まで6.3kmの地下50mに内径10m水路が造られ、直径30m5本の縦坑から付近の河川で溢れた水を 取り込み途中30万㌧入る調圧水槽にため込み水流を弱め超高性能ポンプで江戸川に放水する。
平成5年から18年までに2,400億円かけて造られた。東京を守るため、現代でも治水にこれだけのことしている。
これが台風19号で大いに活躍、東京だけでなく私たちの地域にも恩恵があった。
都内石神井、神田、目黒川付近にも同様な放水路が地下に造られており今回110万㌧の水が溜められて都心を水害から救った。
今回被害があった多摩川は大正時代流域の料亭が景観を損ねるからと土手の建設に反対した経緯があった。
これが今回水害の遠因になったとも言われる。
荒川中流での被害は都幾川の氾濫だったが、都幾川は越辺川から入間川、荒川に流れ込むが荒川の水量が多かったために自然の摂理で起きた現象であった。
これからの日本は人口が減少、無理してまで“危ないところには住むのは止しましょう”というのが私の持論です。
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