今回は行田の忍城と古墳を9月19日20名で散策してきました。行田は中仙道から少し外れ熊谷に隠れてと思っていましたが、然に非ずでした。
荒川と利根川が最も接近する地域(大昔は合流)で水が湧き出し忍城祉傍の水上公園などの水源となっていて、井戸を掘れば水が噴き出すことから名付けられた隣町吹上と同じ地域で、水田には適しているものの一方では湿地帯も多かったとのことです。
このような地域性から人びとの活動も活発で5世紀から7世紀にかけて作られた前方後円墳が主の古墳群を形成していました。その中の稲荷山古墳で昭和58年に発掘調査により大発見がなされ一躍有名になったのは、副葬品の鉄剣の両面に金で「奈良時代の天皇の統治を助けてきた」等との文字が刻まれていて、奈良時代当時の天皇の勢力が関東にも及んでいることを証する貴重な発見であったからでした。それは国宝に指定され、その現物を見ることが出来ました。ところが、時代が変わると田畑の開発が優先されたため古墳の一部が壊され又盗掘により荒らされていたそうで時代の移り変わりが分かります。
戦国時代には湿地帯という天然の要害を利用して成田氏が築いた忍城、石田三成の水攻めに耐えた難攻不落の城「のぼうの城」の舞台になったところですが、実は水攻めにするため土塁を築いたものの土地の傾斜により城付近にはあまり水攻めの効果が無かったと説明を受けました。江戸時代に入ると家康の遺訓により関東を守る要所の一つとして重鎮譜代が配置され、後年三方領知替えにより桑名から奥平松平氏(初代宇都宮城主と同族)が転封されてきたとのこと、徳川時代の転勤族の大変さを垣間見ることが出来ました。
明治になると近隣の綿花を用い足袋の生産で多いに町が栄えたこと、足袋は季節商品ゆえ金融が発達し現埼玉りそな銀行や埼玉信用銀行の前身が生まれたこと、関東でも初期の火力発電所が建設され当時埼玉では最先端をいく地域であったことを知りました。
次回は11月15日土曜日に蓮田の歴史散策を予定していて、10月の回覧にて案内します。なお、クラブ入会希望の方は当クラブ代表宇治田忠昭まで連絡をお願いします。