幸手宿散策 ~歴史散策クラブ~

幸手の歴史概要
「さって」の地名が見られるのは今から1800年前に遡り日本武尊が東征の折、薩手(さって)ガ島に上陸して農業神・建御雷神を祀ったとされ、鎌倉時代から戦国時代にかけては 高野の渡しが奥州への重要な地点であった事が「吾妻鑑」に記されている。ここを通って上高野から川崎の方へゆく鎌倉街道は「中の道」ともよばれ軍事上、交易上重要な道であり源頼朝や義経、静御前、西行法師が通った道であった。室町時代~戦国時代にかけては古河公方の家臣の領地となり幸手駅周辺に城が築かれたといわれる。「下川辺の庄」のほか、いくつかの地名があったが「幸手」名は約400年前から使われた。

4月3日(月)に、28名のクラブ仲間と「桜まつり」開催中の幸手を歴史散策。
幸手駅で観光協会から渡されたイヤホンを付け、花冷えする中、ガイドさんに引率されて旧日光街道に面した明治初期~昭和10年代に建てられた商家や民家を中心に見学。
幸手はかって幸手宿と呼ばれた宿場町で日光街道と日光御成道の合流する宿場として、また廻船問屋が軒を連ねる物流の中継地点として栄えた歴史を感じる街である。私は御成街道の幸手商店街を車でときどきを通るが、車窓からよく見る家屋を中心に散策したが商家の庭には荷捌き用トロッコレールが残されるところもあり新しい発見。
また、幸手には神社や寺も多いそうで幸手総鎮守の幸宮神社や主な寺を訪ねる。
聖福寺の入り口には唐風の勅使門があり寺は日光に参拝した歴代徳川将軍の休憩所であったそうで左甚五郎、運慶などの彫刻や仏像もあり由緒ある寺で境内には生け花の祖の碑や花塚碑などもあった。正福寺は珍しい現代風の鉄筋コンクリート造りの建築だった。ここでガイドさんと別れ権現堂堤に向かう、

権現堂堤は江戸時代に築かれた利根川流路を人工的に変えた堤だが昔から桜の名所で最近は菜の花、紫陽花、彼岸花などの咲く季節にも多くの人が訪れるそうだ。桜はまだ3分咲き位であったが花見客も多く川名さんの奥様が朝から場所取りや飲み物などを手配して頂いたおかげで、すぐに宴会が始まり10分後には盛り上がる。私は入会して2回目の散策であるが友人も増え、帰路は久喜駅前で2次会など、宇治田会長や今回幹事の川名さんのおかげで楽しい一日を過ごすことがでた。
     (歴史散策クラブ 栗原征四郎)

コメント

タイトルとURLをコピーしました